最後に漬物を美味しいと感じたのはいつですか? 漬物文化と魅力を伝え続ける。漬物専門店店主・柳沢博幸
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▲水流の力を利用した「回転式そうめん流し器」
暑くて食欲を失いがちな夏にもさっぱりと食べられるそうめん。するする喉を通っておいしいですよね。
竹樋(たけどい)でそうめんを流す「流しそうめん」は全国各地で行われている夏の風物詩ですが、鹿児島では流すのではなく機械でそうめんを回転させるスタイルが主流で「そうめん流し」と呼びます。そうです、なんとそうめんを回すのです!
発祥の地は、薩摩半島の最南端エリアにある「指宿市営唐船峡そうめん流し」(以下、唐船峡)です。竹樋で流すスタイルと違って上流からそうめんを流す人を必要とせず、みんなで一つのテーブルを囲んで楽しめるのも魅力で、唐船峡は夏の人気スポットとなりました。
1973年には昭和天皇の弟である高松宮ご夫婦も訪れ、その人気ぶりにさらに拍車がかかりました。今では、蒸し暑さを感じる季節になったら「そうめん流し」で涼むのが、鹿児島流夏の楽しみ方の代表です。
▲大勢のお客様で賑わう唐船峡の店内の様子。(画像提供:唐船峡)
それにしても、そもそもなぜそうめんを回転させようなんてユニークな発想に至ったのでしょうか? 発祥の地である唐船峡に「そうめん流し」のおいしさの秘密を探りに行ってみました。
▲唐船峡入り口。
薩摩半島の最南端エリアにある唐船峡は、鹿児島中央駅から車で約1時間30分。唐船峡の名前は昔この地が入江だった頃、唐の船が出入りしていたことに由来します。その名残として唐船ヶ迫の地名が残っています。
▲階段をひたすら降ります。
入り口から階段を下りていくと、空気がひんやりと涼しくなっていくのを感じます。杉木立の根元から清涼な水が湧き出でており、この水の良さがそうめん流しのおいしさと人気の秘密です。湧出量は一日約10万トンと豊富で「平成の水百選」に認定された名水です。
広々とした施設内には「回転式そうめん流し器」が置かれたテーブルが91台。最大で500名ほど入れる規模感です。
▲二段式そうめん流し器。上の段は左利き用で時計回りに、下の段は右利き用で反時計回りに回転します。右利きでも左利きでも食べやすいですね
そうめんをざるからとって流して、またすくって食べます。「そのまま食べてもいいのでは?」と思う人もいるかもしれませんが、そのまま食べるよりも、湧水にさらしてから食べる方がすっきりとした味わいで喉越しも良く、ぐっとおいしくなります。湧水が確実にそうめんをおいしくしてくれるのです。
▲常に新鮮な水が流れ込む仕組みのため衛生面でも安心。水も冷たい状態が保たれています
自家製のめんつゆは、利尻昆布や指宿山川産鰹節を使って出汁を引き、鹿児島らしく甘めに味付けされた唐船峡秘伝のレシピで作られています。
「創業当時から50年以上製法を変えずに作っています。スタッフで作り方を知っている人も限られていて、レシピは門外不出です。販売はしていないので、食べられるのはここだけです」(唐船峡スタッフ)
唐船峡そうめん流しの歴史は、いつ、どのようにして始まったのでしょうか? それを説明するには1960年前後の時代背景から説明する必要があります。戦後日本は目覚ましく復興を遂げていき、新婚旅行ブームと高度経済成長の消費拡大を背景に、宮崎県や鹿児島県指宿市の砂むし温泉は旅行先として絶大な人気を誇っていました。
しかし、唐船峡のある開聞町(2006年に合併で指宿市に)は観光客が「通り過ぎる」場所でした。円錐型の美しい開聞岳やその麓にある火口湖・池田湖、白砂青松の海岸線など、観光客は風光明媚な景色を愛でるものの、どこかに立ち寄ってお金を落とす機会がありません。
▲池田湖から見た開聞岳。温暖な気候の開聞町では、菜の花が12月頃から咲き始め「日本一早く咲く菜の花」が町のキャッチコピーでした。(写真協力:公益社団法人 鹿児島県観光連盟)
当時、開聞町役場に勤めていた井上廣則さんと新村良一さんは、繫栄する隣の指宿市を見て開聞町の状況を歯がゆく思っていました。「このままでは町にお金が落ちない、なんとかして人を呼ぶ場所を作れないか」と2人で熱く語り合っていたそうです。
そこで出たのが、唐船峡に湧き出る湧水を利用して「そうめん流し」をするアイデアでした。昔からこのあたりでは、地元の人が家から湯がいたそうめんを持ってきて清水に浸して食べていました。
▲ひんやりした清涼な空気と雰囲気の良さは現在でも変わらない。
そうして1962(昭和37)年、テーブルに竹の樋を埋め込んでそうめんを流す町営そうめん流し場がオープンします。「それで人は来るの?」と疑問視していた人たちもいたものの、予想に反して施設はたちまち大ヒット、多くの観光客が訪れます。しかし、経営・運営上の課題は山積みでした。
「竹にはカビが生えやすく、新しい竹を割って交換するなど手間がかかりました。また、そうめんを流す人手も必要だったと聞いています」(唐船峡スタッフ)
「団体でテーブルを囲んで楽しめるやり方にできないだろうか」とさらなる試行錯誤が始まります。井上さんは名古屋の愛知航空機で設計技師として勤務しており、戦後の愛知航空機解体にともない鹿児島へ帰郷していました。仕事で培った知識と持ち前の発想力を生かしてそうめん流し器の図面を引きます。
開発の舞台裏を、井上さんの息子さんはこう話されます。
「当時、私は20才くらいで地元を出ていたので詳しい様子は見ていないのですが、そうめんを回転させる発想は中華料理の回転テーブルがヒントになっていると聞きました。大きなたらいを回して試作していたようです」(井上さんの息子さん)
また、当時の新聞や言い伝えられている話などをまとめると「井上さんの奥さんから『たらいで洗濯をするように、そうめんを回したら楽しい』と言われてひらめいた」や「奥さんがたらいで洗濯をする様子を見てひらめいた」など、たらいや奥さんとのやり取りもヒントになっていたとの話が残っているようです。
井上さんは自ら引いた図面を持って鹿児島市のメーカー・鶴丸機工商会を訪れて、連携して「回転式そうめん流し器」の試作を重ねます。水の量や流し方など調整に調整を重ねて、試作品は20を超えたのだとか。そうして1963(昭和38)年、第一号機が完成します。施設にも13台投入されました。
▲当時の様子。10人でテーブルを囲んでいます。
第一号機は真ん中にある丸い器の下から水を吹き上げ、そうめんをほぐして4つの樋を伝って外側に流す仕掛けでした。斬新なアイデアと一つのテーブルを囲める楽しさから、たちまち注目を集め、観光客だけでなく全国から施設の視察に訪れる人も。各地に類似施設ができ始めました。
▲川に浮かんだ場所で楽しめるそうめん流しもあったようです。なんとも楽しそう
唐船峡の名をさらに広めたのが皇族の方々の訪問でした。
「1970(昭和45)年に常陸宮ご夫婦、1973(昭和45)年に昭和天皇の弟である高松宮ご夫婦が来てくださった記録がございまして、全国的にも知られていった要因だと思います」(唐船峡スタッフ)
▲高松宮ご夫婦御来所の様子。
その後、井上さんは回転式そうめん流し器の権利一切を開聞町に譲渡。特許庁に意匠登録を申請して、1970(昭和45)年に開聞町に特許権が交付されました。
創業から30周年の1992(平成4)年に唐船峡は最盛期を迎え、年間で33万8千人もの人が訪れます。「そうめん流し」は町を代表する一大観光産業となり、通り過ぎる街だった開聞町は目指してやってくる場所になっていました。その根底にあったのは「町に人を呼びたい」と熱く語り合った井上さんと新村さんの思いでした。
「父は想像力や好奇心が旺盛な人でした。そうめん流し器に限らず、興味を持ったことは何でも聞いたりやってみたりしていました。年をとってからもそれは変わらず、死ぬ間際まで意欲は衰えませんでした」(井上さんの息子さん)
このように鹿児島で回転式「そうめん流し」は誕生し広まっていきました。
「回転式そうめん流し器」は第一号機誕生以来、改良に改良が重ねられ、より楽しくそうめん流しができるよう工夫されています。水の流れを見ると、そうめんが絡まらずうまくほぐれるように水流や角度が調整されているのがわかります。
「おいしいはもちろんなんですけど、『楽しかった』と言うお子さんがとても多いんです。あと『テーマパークみたい』とおっしゃる方もいらっしゃいます」(唐船峡スタッフ)
「町に人を呼びたい」から始まった「そうめん流し」は、いま鹿児島県民が当たり前に楽しむものになりました。ひとつの食文化誕生の背景に、当時の社会構造や関わる人の思い、地域の状況など様々な事情が絡み合っており、丁寧に追っていくと在りし日の開聞町の暮らしが浮かび上がってきます。
最近では、自宅でも楽しめる回転式そうめん流し器が販売されています。冬は家族で鍋を囲むように、夏は「そうめん流し」を囲んでみてはいかがでしょうか。唐船峡のスタッフにおいしく食べるコツを聞きました。
「適温がありまして、唐船峡の湧水は夏場に10℃~15℃とほどよい冷たさなのがおいしさの理由のひとつです。家庭でやるときも氷を足すなど温度を意識するといいですよ」
※売り切れや取り扱い終了の場合はご容赦ください。
※店舗により取り扱いが異なる場合がございます。
※一部商品は、店舗により価格が異なる場合があります。