手袋1つで家中お掃除「そうじの神様おそうじミトン」がズボラ向けで優秀だった!
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はじめまして。僕は鳥取県の田舎町で、田畑をしながら汽水空港という名の本屋を運営しています。
ある日、カインズさんから「園芸」をテーマに何か記事を書いてくれないか? という依頼がありました。もちろん書きます。田んぼのこと、畑のこと、なんでも書きますよ。
そう思って、改めて「園芸」とは何かを考えてみました。ウィキペディアによると「植物を育てること。または植物を育てる技術。一般的には植物を育て楽しむこと。 本来なら『園藝』と書き、生きた植物を絶対的素材とする芸術の一つである。」とありました。
「園芸」と聞くと、植木鉢で観葉植物を愛でること、ベランダ菜園、家庭菜園辺りがイメージの範疇になるかと思います。僕も家庭菜園をしていますが、その規模と環境が少し変わっています。
僕は自分たち家族、そして友人たちが食べていけるだけの米、野菜を一部共同で、一部は家族で栽培、収穫して生きています。畑には「汽水空港ターミナル2(食える公園)」と名付け、最近は家族だけでなく、旅人でも誰でも、実りはいくらでもどれだけでも収穫していいですよと公言し、小さな小屋、椅子やテーブルを畑の中に設置しています。
ここは自給するという目的を軸にした公園で、当然野菜を植えていますが、野菜のスペースよりも、むしろ僕らが借りる以前から生えているワラビ等の山菜、竹、樹木、名の知らぬ季節の草花が占める面積の方が広く、僕はその時々で山菜を採ったり、季節ごとに勝手に咲いている花を眺めて楽しんでいます。
自覚的に育てているのは野菜だけですが、ワラビが生えてくるゾーンは竹でフェンスを編んで保護したり、風通しが悪いエリアは刈払機で草を刈ります。咲いている綺麗な花を気まぐれに避けながら。
そうしたこちらの能動的な働きかけと、自生する植物の力とが混ざりあった場所を「公園」と名付けて日々楽しんでいます。「園芸」という言葉から連想されるイメージを自分の生活に当てはめてみた時、僕はこうした少し規模の大きな畑もその範疇に含まれているとナチュラルに判断しました。
耕作・栽培するという意味のcultivateと、文化・芸術を現すcultureは、両方ともラテン語のcultus(耕す)が語源になっていると聞いたことがあります。そうであるならば、「生きた植物を絶対的素材とする芸術の一つ」とする園芸は、人が自然に働きかける技術のことだといえるかもしれません。
そう考えると、田んぼというのは畑よりももっと人為的にコントロールされた営みで、さらに園芸的だと感じられます。去年まで使っていた田んぼは山の高い位置にあり、沢から水を引いています。年に何度かは集落全体で水路の掃除をし、一帯の水源まで皆で遡りながら作業をします。そうした風景を見ると、田んぼを築く為に人々が費やした労力、治水工事の時間に思いを馳せずにはいられません。
稲を育てる為、山から里までを大いなる箱庭として、その環境を人為的に創造する営みが田んぼであるとも言えます。その環境が大規模である為に、当然そこにはコントロールの埒外にある様々な虫、動物、魚、植物がエリアの中で共に暮らします。僕の暮らしている湯梨浜町には「東郷湖」という湖があり、海と繋がっています。山、川、湖、そして海へと流れていく水の動きがよく分かる町です。その水の流れに対応するように、田畑が山の麓まで続いています。
この様子を鳥瞰図的に捉えるならば、人が暮らす里と山とを人間の知恵と手による介入を通じて、ひとつのcultureとする「里山」という存在は、大いなる園芸活動とも言えるような気がしてきました。
全ての園芸は里山に通ず。人類が生まれる以前から存在している、手つかずの山に道をつくり、水路をつくり、有用な植物の種を蒔き、植林をする。そうか、里山もまた「園芸」活動なのか。そう思い至った時、里山制作団体「つち式」、そしてその派生団体である「全日本棍棒協会」、及びその代表である東樫a.k.a.東千茅さんの活動を紹介してみようということになったのでした。
それでは、これから「全日本棍棒協会」についてのお話をしていきたいと思います。はじまりはじまり。