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【カムカム】朝ドラ出演の庭師・村雨辰剛が帰化してまで日本文化を守りたい理由

クリエイター

村雨辰剛

村雨辰剛

むらさめたつまさ/1988年7月25日生まれ、スウェーデン出身。来日後、2012年から造園業の徒弟として5年間勤務。のちに日本国籍を取得。現在は、庭師として働く傍ら俳優・タレントとしても活躍中。NHK朝の連続小説『カムカムエヴリバディ』(21年)、NHK「趣味の園芸」、NHK『みんなで筋肉体操』などに出演。

カムカムエヴリバディ出演・村雨辰剛はなぜ庭師になった?

昨今、日本庭園の数がひどく減少している。洋風建築が主流となり、庭そのものを持つ住居も減った。個人宅の庭園は解体が進むいっぽうだ。

そんな日本古来の庭園文化を守ろうとするのが、村雨辰剛さん(33)だ。この名前は帰化後の本名で、出生名はビョーク・セバスチャン。自らを「日本のオタク」と語り、日本文化を日本人として残していくために、スウェーデンから国籍を変えた。

端正なルックスを生かして、現在はタレント業もこなす。NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でのロバート将校役が記憶に新しい人もいるだろう。

職人というと、どうしても厳つい人を想像してしまうが、村雨さんは爽やかという言葉を具現化したような好青年だ。取材のために鯉口シャツと藍染の袢纏を着てきてくれたが、衣装にはこだわりがあるらしい。

「僕は日本本来の庭師や和風庭園というものを伝えたいので、恰好を気にしています。これは日本橋の染屋さんにお願いした、昔の日本の職人が着ていた印袢纏です。ちゃんと生地も織物で、背中には自分で考えた家紋を入れました」

オリジナルの家紋

スウェーデンの実家の家紋と日本の松の家紋を組み合わせてつくったというオリジナルの家紋。

村雨さんは、メディア出演が忙しい今でも、週の6割以上は庭師の仕事を続けている。最近では、淡路島で、日本庭園『国生みの庭』の作庭も手掛けた。

なぜスウェーデン人だった彼は、庭師になったのか。なぜ国籍を変えてまで、日本の伝統文化を守ろうとするのか。そして、なぜタレント活動を行っているのか?

様々な疑問を抱きつつ、村雨さんのルーツからお話を伺った。

故郷スウェーデンでの少年時代

故郷スウェーデンでの少年時代

村雨さんは、1988年にスウェーデンのエルケルユンガという村に生まれた。ここは人口が1万人にも満たない田舎の小さな村だ。自然が豊かで、人は穏やか。その代わり、田舎独特の「閉鎖的な狭い環境」でもあった。セバスチャン少年は、この村で海外に出る日を夢見た。

「自分が生まれ育った狭い環境とは全く違う場所に行ってみたいというのが始まりでした。出ていくなら遠いところまでいきたくて、国内では物足りないなと思っていたんです。子どもの頃は考えが極端でした」

海外への志向が高まる中で、転機は15歳の時におとずれる。学校の世界史の授業で、他国を研究することになり、日本を選択したのだ。

「戦国時代の上杉謙信や武田信玄が面白いなと思って。そこから歴史を勉強していくと、今の日本は鎖国だったり、島国で孤立した時が長かったから独特な文化が守られていると分かった。中国の三国志も好きでしたが、日本はもっと個性豊かに見えたんです」

勉強するにつれて、武士道やわび・さびなど日本の独特な文化に心酔していく。そんなセバスチャン少年を家族は応援した。誕生日には、父親が日本語の辞書を買ってくれたそうだ。

「元々、内向的でオタク気質だったので、友達とみんなで遊んだりもしない子でした。急に日本語を勉強するって言い出したときも、親はそんなに驚かなかったんです。ずっと、変わっている子だなと思われていたんでしょうね(笑)」

16歳の時に、チャットで知り合った日本人の家に、3か月間のホームステイをすることになった。その家は、横浜市にある日本古来の雰囲気が残る旧家で、お父さんは毎朝仏壇の前で経を読むような人。理想的な環境だった。平日はお父さんの仕事を手伝い、休みの日は近くの鎌倉まで羽を伸ばして、神社仏閣を見に行ったという。

16歳の少年が日本に来たら、普通は渋谷や原宿などに行こうとするのではないだろうか。だが、村雨さんは「全く興味がなかった」と言って笑う。この頃からずっと、心が追いかけるのは、日本古来のものだった。

憧れた日本での生活が始まる

帰国後も日本への思いが高まり続けた村雨さんは、高校卒業後、半年間のクッキー工場での勤務で渡航費用を貯めて、2007年に日本に渡った。出発前に愛知県名古屋市で語学学校の教師の仕事も見つけることができた。

「僕にとっては愛知県といったら戦国時代。三英傑もみんな愛知県出身だし、国宝犬山城などのお城や合戦場もたくさんあるので、場所も凄い良かったです」

だが、語学学校の教師は、日本に行くために選んだ仕事で、一生の仕事だとは思っていなかった。日本での生活にも慣れてきた4年後、東日本大震災が起きる。心配する親を落ち着かせるため、一時帰国をした時に、自分を見つめ直した。

「本当に日本の伝統文化と繋がっているものに挑戦したい」

再度日本に渡り、仕事を探す。日本文化に関われるならなんでも良かった。最初は、宮大工になろうと思ったが、未経験者の募集はなく、何件も断られた。

そんな時、求人誌で造園屋のアルバイト募集を見つける。

「造園ってなんだ? 日本庭園か!? …日本庭園!日本文化じゃん!みたいな。最初から、庭師になろうと思っていたのではなく、そういう道のりがあって辿り着いたんです」

庭師としてのデビューと念願の弟子入り

語学教師は待遇が良い仕事だった。それに比べて、庭師の休みは週に1日。肉体労働で体力的にもきつく、チャドクガや蜂にも刺される。一人前になるまでは給料も低い。だけど、仕事は楽しくて仕方がなかった。

「僕の中で、日本庭園は和の美が詰まっています。仕事なのに、美術館を回っている感覚でした。庭師の仕事は大変だけど、ロマンという原動力がありました」

プライベートで、常に木や庭を見る癖がついたのもこの頃からだ。住宅街を歩くと、「この家は綺麗に剪定しているな、ここはちょっと荒いな」と職業病があらわれるようになった。

庭師の仕事を始めた村雨さんには、夢があった。それは、弟子入りをして師匠を持つことだ。

憧れた徒弟制度は、元々は13〜14世紀に「ギルド」と呼ばれ、ヨーロッパで広く見られた制度である。だが、16世紀ごろに衰退し、今では全く残っていない。だからこそ経験して見たかった。

「ヨーロッパには、親方につきっきりになって『見て盗む』みたいな環境は今ではもう残っていません。でも、日本には伝統的な制度が、昔のままで残っているんですよ。僕はそのことにロマンを感じていました。これからなくなるかもしれない制度に自分が生きているうちに参加できるんだって、自分の中で熱くなっていたんです」

だが、アルバイトで入った造園屋は、弟子を募集していなかった。そこで1年弱が経った頃、別の造園屋に転職をする。何件も断られた末に弟子にしてくれたのが、村雨さんが5年間の修行を行った加藤造園だった。

庭師の仕事を始めた村雨さん

加藤造園は、武家屋敷や古いお寺など庭園文化が色濃く残る愛知県西尾市吉良町の造園屋だ。吉良町は忠臣蔵の敵役、吉良上野介の領地の大部分があった場所である。歴史好きの村雨さんには、たまらない場所だった。

親方の名前は加藤剛さん。村雨さんはこの加藤さんのそばで仕事をじっと観察し、技術を吸収していった。

村雨さんは、修行期間を振り返り「学校では学べない事が学べた」という。技術だけなら動画でも学べる時代だが、徒弟制度で学べたこととは何か。

「『庭の美・和の美』は、自分の目で見て観察して、体に沁み込ませることではじめて理解ができる奥深いものだと思っています。専門学校のカリキュラムの中で、先生に『これをやりなさい』とか、『こういうものです』と言われて分かるものではないかなって。現場に入って、熟した職人のもとについているのが大事だと思うんです。

それに、修行は辛い期間でもあるんですけど、その辛さや経験から出てくる味もあると思います。その味が、作品に活かされていく。はたから見たら単純作業を長い時間かけてやっているように見えるかもしれないけど、時間をかけることによって育つものもありますから。急がば回れです」

親方の加藤さんは、外国人だからと扱いを変えることはなく、理不尽に怒ることもない人だった。刈り込みの技術も一流。人生においても大切な人との出会いとなった。

「普通の職場の上司というよりかは、家族に近い気がします。スウェーデンの家族に一番近いのは、やっぱり親方と親方の家族。去年はコロナでできなかったですけど、毎年新年会があって、今年は久しぶりにお会いできました。親方は、僕がまだ村雨辰剛でなくセバスチャンの時に出会っているから、今でも『セバ』って呼びます。親方は変わらないんだなって、いつも呼ばれるたびに思うんです(笑)」

国籍変更。日本人・村雨辰剛の誕生

国籍を変更し、日本に帰化

加藤造園で修行をして3年目の2015年の夏。27才の時に大きな決断をする。国籍を変更し、日本に帰化をしたのだ。

日本の国籍変更の条件は厳しく、用意する書類だけでも100枚程度に及ぶ。村雨さんはこの時すでに永住権を取得していたため、日本で暮らすうえでの不便は特になかった。なのに、なぜ国籍を変えたのか。

「どちらかというと帰化することで捨てるものの方が多いです。もともとの国籍を破棄しなくちゃいけませんから。でも、僕にはこだわりがあった。この国にずっと住んでいくのだったら日本人として住みたいし、日本人として消えつつある文化を守っていきたかったんです」

重大な決断に、後悔をしたことはないのだろうか。

「自分の中で消化して、今に至ったので後悔はありません。僕が好きな日本語で、『不退転の決意』という言葉があります。この言葉を聞いた時に、すごいピンときました。僕は日本に対する熱意だけは、ずっとぶれることなく持ってきた。帰化という選択も『不退転の決意』なんだと思います」

国籍を変えると言った時、さすがに両親からは心配をされた。でも、最終的には納得してくれた。15歳の時から、日本オタクになったその姿をずっと見てきたからだ。

「僕の人生を見ていて、応援してくれているから、そこにはもう理解があったんです。今までの行動があるから許してくれたんだと思う。周りからはサポートが多かったです」

スウェーデンの家族とは、今も時々Zoomや電話などで話すという。だが、日本に来てからの15年間で、2回しか顔を見せに帰っていない。そんな自分を、「親不孝もの」だと自覚しているそうだ。

「僕はスウェーデン時代のものを置いてきて、新しい人生を日本で始めたという感じなんです。わがままな人生の送り方の究極だと思います。親不孝ですよね。故郷は好きですけど、思い出すことはあまりない。でも、やっぱりたまに家族に会いたいなとは、思ったりします」

名前は「村雨辰剛」に変更

帰化すると同時に名前も、村雨辰剛に変わった。辰年だから辰。剛は、親方から一字を拝借した。苗字の「村雨」は、親方のお父さん、つまり先代の師匠が、好きな作家・村雨退二郎からつけてくれた。

「親方と先代の師匠からは、『ちゃんと名前に負けないような人生を送れ』と言われました。正しい生き方というのは分からないけれど、そういう師匠たちの思いを背負うことも、この名前には込めています」

タレント活動を行う理由とこれからの目標

5年間の修行期間を終えて、村雨さんは名古屋から東京に出た。吉良町での仕事は、すでに完成されている日本庭園の管理や手入れが主で、新しく和の庭を造る仕事はなかった。そこで、一から庭造りができる仕事も多い関東に出てきたのだ。

東京に出ると同時に、タレント活動も本格的に始める。最初に大きく注目を浴びたのは、NHKの「みんなで筋肉体操」。その後は、「趣味の園芸」でナビゲーターをつとめたり、朝ドラの「カムカムエヴリバディ」に出演したりと、次々に活動の幅を広げるようになった。

朝ドラのオファーをもらった時、本格的な演技の経験はなかった。「本当に自分にできるのかな」と、撮影前日に緊張で眠れなくなった夜もあったが、何とかやり切った。今では挑戦して良かったと語っている。

「長い間、演技には挑戦してみたかったので、それが叶いました。演技は本当に細かくて繊細な世界。大きな役で不安がいっぱいだったんですけど、見てくれた人が評価してくれて、嬉しかったです」

役者の仕事は、これからも続けていく考えだ。ちなみに、好きな役者について聞くと、「勝新太郎さんと藤田まことさん」。昭和の名優の名前が出てきた。

ホームセンターを頻繁に利用するという村雨さん

少しだけ疑問に思ったことを聞いてみた。そんなに日本文化が好きで日本庭園を守りたいなら、タレント活動はせずに庭師の仕事に専念した方がいいのではないか。いじわるな質問だと思ったが、村雨さんからはぶれない答えが返ってきた。

「そういう声はたくさんいただきます。『肩書をどっちかにしろよ』って(言われる)。でも僕は独立してから3,4件の日本庭園を造っているんですけど、全部メディアに出ているからいただけたお仕事なんです」

実際、東京でも、日本庭園の作庭を仕事にできている庭師は少ない。多くが既存の庭園の管理か解体作業、もしくは街路樹の剪定をしたり、洋風ガーデンを造ったりする人もいる。村雨さんは、メディアに出ているからこそ、本当にやりたい和の庭園造りの仕事がもらえているそうだ。

また、活動の幅を広げるのは、庭師としての自分を成長させたい思いもある。

「庭師だけやっていた方が成長するという考えもあるけれど、僕は色々なことをやっているからこそ成長すると考えています。できることがあるなら、これからも挑戦を続けたい。実際に、タレント活動の中でコミュニケーション能力が上がって、お客様との打ち合わせが上手く行くようになったり、本業にプラスになっていることが多いんです」

15歳から日本に焦がれ、不退転の決意で日本文化を守るために日本人になった村雨さん。その決意はタレント活動を行う今も変わらない。

「活動する分野が広がったので、各分野でレベルを上げたいと思います。それと、僕は『庭師』という肩書には、こだわっていませんが、『和の庭園にいつまでも関わりたい』という思いは軸にあります。これからも日本庭園をもっと造って、その良さを伝えていきたい。職人の世界は常に学ぶものがあって終わりはありませんが、僕が庭師として、人として、もっと成長することで、管理しづらいという日本庭園の誤解を解けたり、和の文化の良さを伝えることができると思っています」

村雨辰剛おすすめのビキナー向け植物とは?

仕事でもプライベートでも、ホームセンターを頻繁に利用する村雨さんにその使い方を聞いた。

まずは園芸コーナーについて。村雨さんは現在、NHKの「趣味の園芸」でナビゲーターをつとめているが、実は園芸と造園はまったく違うそう。

「よく『一緒じゃん』って言われるんですけど(笑)。僕は木や石を扱うけど、園芸は細かい草花を扱う。植物の基礎的なことは理解しているんですけど、全然世界が違うんです。番組では毎回知らないことだらけで、とても勉強になっています」

そんな村雨さんに、これから園芸を始める人にオススメの植物を聞くと、「シュロチク」を提案してくれた。

「枯らしてしまうと自信がなくなるので、これから始める人はシュロチクのように管理しやすいものから始めたほうがいいと思います。

シュロチクは、庭木としても使うし、観葉植物にしても大丈夫。すごく強くて、渇きにも耐えるし、大体ひどいことをやっても枯れません。これを枯らしたら本当に向いていないかも(笑)。江戸時代から馴染みのある植物で、僕も大好きなんです」

シュロチク

DIYについても伺った。村雨さんが生まれたスウェーデンでは、DIY文化が非常に盛んだ。古い家を買って、自分たちの手でリフォームすることが当たり前に行われている。村雨さんも最近また、日本でDIYを始めたとか。

「向こうでも親の手伝いで、デッキを作ったりしていました。日本に来てからは中々できなかったんですけど、最近またできるようになったので、DIY心に火が付いています」

そんな、村雨さんが考えるDIYの魅力とは?

「自分で作ってみると意外に楽しかったり、やりがいがあったりしますよね。それと、やっぱり自信がつくんです。もちろん、餅は餅屋というので、職人にお願いした方が良いこともありますが、自分でやることによって『こんなものも作れるんだ』と自信になったりする。自信や成長、レベルアップを感じることができるのが、DIYの魅力なのではないでしょうか」

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