- クリエイター
- PR
ぬいぐるみに「霊的な何か」を感じてしまうのはなぜ? 罪悪感の正体と正しいお別れの仕方について専門家に聞いてみた
私たちを癒やしてくれる存在のぬいぐるみ。しかし、「ぬいぐるみと一緒にいると運気を吸われる」など、ぬいぐるみにまつわるネガティブな情報をたびたび目にすることがあります。本来は布と綿の塊であるぬいぐるみに「霊的な何か」を感じてしまうのはなぜなのでしょうか? 人形文化を専門に研究している菊地浩平先生に話を聞きました。
ぬいぐるみを愛して6年。不思議に思っていることがあります
ぬいぐるみって、本当にかわいいですよね。
見た目がかわいいのはもちろん、存在自体がかわいくて愛おしいです。
水曜日のハンズさん編集部員の私・まるやまもぬいぐるみが大好きで、写真の「たまちゃん」ともうかれこれ6年以上一緒に暮らし、ずっと一緒にいます。
たまちゃんがそばにいるだけでハッピーな私ですが、ぬいぐるみ好きとして長年過ごしていると、ぬいぐるみにまつわるネガティブな情報が耳に入ってくることがたびたびあります。
代表的なのは、占いや風水。「ぬいぐるみに運気を吸われる」「ぬいぐるみとずっと一緒にいると恋愛運が下がる」なんて内容を何度も目にしてきました。
最初は「なんてひどいことを言うんだ!」と思っていたのですが、ぬいぐるみに「霊的な何か」を感じることって、私自身にも心当たりがあります。
例えば、ぬいぐるみを雑に扱ってしまった時。ぬいぐるみが自分に怒っているのではないかと思い、「何かバチが当たるんじゃ……」という考えが頭をよぎります。あとは、わけあってぬいぐるみを処分する時も、「恨まれて生霊として出てくるのでは?」なんて怖くなってしまいます。
私が言うのも変ですが、ぬいぐるみって本来は布と綿の塊で、一種のインテリアみたいなものです。他の持ち物には考えないのに、ぬいぐるみに対して霊的な何かを感じたり、罪悪感を抱いてしまうのって、よく考えたら不思議なことですよね。
この謎を紐解くために、人形文化を専門に研究している白百合女子大学の菊地浩平先生に話を聞きに行きました。
私たちがぬいぐるみに対して「霊的な何か」を感じて怖くなってしまうのはどうしてなのか。また、ぬいぐるみに感じる「罪悪感の正体」や、ぬいぐるみとの正しいお別れについても伺いました。
ぬいぐるみにまつわる迷信が広がるのはナゼなのか
──風水や占いなど、ぬいぐるみにまつわるネガティブな迷信が広がるのはなぜなのでしょうか。
菊地先生(以下、菊地):確かに、風水や占いのターゲットにされやすそうな感じは理解ができます。気の流れを良くする的なことを考えた時に、「ぬいぐるみはダメ」みたいな。
風水とは関係ないですが、特に恋人関係の場合、ぬいぐるみによって揉めることがよくあるらしいんです。
──それはなぜでしょうか。
菊地:例えば、同棲を始める時。片方はぬいぐるみが好きで、自分の家のベッドなんかに置いて、一緒に寝ている。一緒に暮らすことによって2人でベッドで寝るときも、片方の人は当然今まで通りベッドにぬいぐるみを置きたいですよね。でも、その恋人からすると「いやいや、これは何?」となって揉めるというのはよく聞きます。
──経験はないですが、起こりそう。
菊地:結局それはどうしたらいいかって、2人の問題だから解決策はないわけです。ただ、ぬいぐるみがその火種になりやすいっていう部分では、その風水などで言っている理屈は納得できます。
「あらかじめその原因の種となるものは摘んで置きましょう」と。そのほうが円滑なコミュニケーションが取れますよ、という道理なのではないでしょうか。
──なるほど。ぬいぐるみが持つ霊的なものによって運勢がどうこう、というよりは価値観の違いがわかりやすく出るから、「ぬいぐるみによって運気が下がる」と言われた時に納得感があるのかもしれないですね。
菊地:そうかもしれません。価値観の違いだと「トイレの便座を上げたままか、ちゃんと元の状態に下げて戻すか」とかはあるあるですが、そういう中の1つなのではないかなと思います。
「なんかバチが当たりそう……」ぬいぐるみに感じる“申し訳なさ”の正体とは
──ただ、ぬいぐるみに対して霊的なものを感じてしまうのは事実としてあります。「ぬいぐるみを粗末に扱ったり捨てたりしたら、バチが当たりそう」みたいな。
菊地:それは、ぬいぐるみを取り巻く「思い出」が根底にあるかもしれません。
そのぬいぐるみが誰かから贈られたものだった場合。それこそ恋人同士でお付き合いをしていて、ぬいぐるみをプレゼントされた。その後お別れした時に、ぬいぐるみは手元に残っている。このぬいぐるみはどうしようかな、と考えますよね。捨てることを選択した場合に、プレゼントされた時の思い出とか、楽しかった出来事とか、なんだかんだ一緒に過ごしてきたから捨てづらいな……みたいな思いが頭を過ぎるのではないでしょうか。
もちろんそれはぬいぐるみ自体への愛着もあるかと思うのですが、背後にあるエピソードによって「バチが当たる」という感覚が生まれるのではないかなと考えています。
──「バチが当たる」の根底には、そのぬいぐるみに対する思い出があるのですね。
菊地:今は恋人の場合でしたが、家族がくれた時も同じようなことが起こりますよね。おばあちゃんがくれたぬいぐるみがあったとして、そのおばあちゃんが亡くなってしまったとする。ぬいぐるみ自体にエピソードはなくても、おばあちゃんがくれたという事実は残っています。事情があってそのぬいぐるみを手放さなければいけなくなった時に、おばあちゃんのことを思い出して、ブレーキがかかるというのは大いに有り得ることだと思います。
──ぬいぐるみがかわいそう、という感情とは別に、ぬいぐるみを取り巻いていたいろいろな物事に対して名残惜しさを感じているがゆえのことだと。
菊地:可能性の一つとしてあるかもしれません。あとは、値段も一つのポイントになるのではないかと考えています。
———値段?
100万円のぬいぐるみがあったとして、それが何らかの理由で自分のところにやってきた。自分の手元には1000円、2000円のぬいぐるみがあって、それと比べた時にやはり100万円のぬいぐるみって捨てたり手放す時に後ろめたさを感じますよね。
──それは間違いないです。
菊地:「バチが当たる」と一言で表すと、神様とか霊的なところから来ているように思えますが、今お話した「名残惜しさ」や「後ろめたさ」がその正体なのではないかなと考えています。
自分の死後は、ぬいぐるみをどうするのが正解なの?
──「ぬいぐるみとお別れする時に感じる後ろめたさ」で言うと、少し話がそれてしまいますが、もし自分が死んだ後、残されたぬいぐるみのことを考えて心がキュッとなることがあるんです。他の方はどのように考えているのでしょうか。
菊地:自分の死後、ぬいぐるみをどうするかについては、人によってかなり考えが分かれます。
燃やしても問題ないぬいぐるみであれば、一緒に棺桶に入れてほしいという方もいます。その一方で、それは「殉死」じゃないか、という見解もあるんです。
──「殉死」。自身の主人の後を追って命を断つことですね。
菊地:持ち主が亡くなったとしても、ぬいぐるみ自体はまだ「生きている」わけじゃないですか。
昔で言うと、権力者が亡くなると古墳などのお墓にその従者が一緒に入っていくという文化がありましたよね。それと同じことなのではないかといった意見も出たりしています。
──その意見、すごくわかります。自分の都合でぬいぐるみの未来を決めてしまっていいのかという葛藤があるんです。
菊地:残された家族をどうしたいかという部分では、人間が人間に対して考えることと全く一緒ですよね。その答えってそれぞれ違うので、ぬいぐるみをどうするかも「こうした方がいい」という正解があるわけではないと思います。
自分の持ち物や財産などについて、みなさんいろいろ考えるじゃないですか。遺品と同じく、ぬいぐるみについても実は決めるに値することなんだという感覚は、もっと広まってもいいのではないかなと考えています。
──ちゃんと家族とも相談していい問題なんだと思えると、少し心が軽くなります。
菊地:もしまるやまさんが亡くなったとして、たまちゃんが残ったとしたら、家族にとってたまちゃんが形見としてまるやまさん自身の存在を担う可能性もありますよね。現実空間にいる「アバター」のような存在として。
ただ、この考え方は、一般の方へ向けたものと言うか。「だからぬいぐるみを怖がらなくてもいいよ」というスタンスでお話しているのですが、ぬいぐるみが好きな方たちからしたら「当たり前じゃん」と受け取ると思うんです。「形見とはまた違うんだよ」って。
──確かにそれはそうかもしれません。自分にとって「たまちゃん」は「たまちゃん」という人格として立っているので。
菊地:そうですよね。
ぬいぐるみが持ち主のアバターであることを尊重するって考え方とは反対に、その持ち主の存在がぬいぐるみ自身にとってノイズになるという考え方もあり得ます。
──「ノイズ」とは?
菊地:例えば、そのぬいぐるみが別の人に渡った時。受け取った人は故人だと思ってそのぬいぐるみを大事にするかも知れないけど、ぬいぐるみ自身は「自分は自分として生きていくんだ」と考えているかもしれなかったり。
菊地:その場合、ぬいぐるみの意思を尊重するにはどうしたらいいのか、この子の未来にどこまで踏み込めるのか、という話にもなっていきますよね。
──正直そこまでは考えていませんでした……。でも、確かにその通りですね。
菊地:ぬいぐるみ自身がどう考えているのかが一番だろう、みたいな。
「私が決めていいのだろうか」と持ち主が葛藤するのも当然あることだろうし、「この子をどうするかは決められません」という選択肢だって間違いではないと思います。
──「決めない」ことも選択肢の一つ。その考え方はありませんでした! もうこの子の人生として、その後は委ねてみるのも可能性としてアリなのかもしれませんね。
やむを得ずのぬいぐるみとの別れ。罪悪感とどう向き合うべきなのか
──先ほどは自分の死後の話について聞きましたが、引っ越しなどの事情でやむを得ずぬいぐるみを手放さなければいけない時もあって。それほど大切にしているぬいぐるみではなくとも、すごく罪悪感を感じてしまいます。こういう気持ちには、どう向き合えばいいのでしょうか。
菊地:それも、罪悪感を背負って一緒に生きていくという選択肢を取る人がいたり、いろんな人がいます。
「なぜ罪悪感を抱くのか」のお話からすると、「大人になった」というのが一つの理由だと考えています。
──それはどういうことでしょうか。
菊地:子どもって、おそらくそこまで罪悪感を感じないと思うんです。先ほどの話題で出した、値段を気にしたりしないですし。誰がくれたものとか関係なくめちゃくちゃに扱いますよね。
大人の場合、目上の方からプレゼントをもらったら、興味がなくとも一応大切にするし、そこまでぞんざいに扱わないと思うんです。ましてやくれた人の目の前で放り投げたりはしないでしょう。
──絶対にしないですね。
菊地:でも、子どもはそういうこともします。
私自身も1歳の子どもがいて、家にはぬいぐるみやおもちゃがあるんですが、一番好きなのってペットボトルなんです。誰かが買ってくれたぬいぐるみやおもちゃよりも、「こっちの方がいい」とペットボトルを大事にする。そこに罪悪感はないですよね。
我々が成長していく中で社会的な軋轢があったり、いろんな経験を経てそういった罪の意識が芽生えるようになってしまうというか。大人になったという証なんだと思います。
──我々が成長してしまったからこそ、いろんなことを考えてしまうというわけですね。
菊地:そういう風に考えると、大人になるってそんなにいいことじゃないかもな、とも思います。子どもの頃の方が、もしかしたらぬいぐるみと楽しく過ごせてたかもっていう気がしなくもないですよね。
──せ、切ない……。勝手にぬいぐるみ側から訴えかけられているような気がしていて罪悪感を感じていたのですが、紐解くと、自分の今までの経験とか、人にひどいことをした時の報復を考えた結果ということですね。
菊地:それもあるかもしれません。ただ、ぬいぐるみ側に責任がまったくないかと言ったら、そうではないと考えています。
──それはどういうことでしょうか。
菊地:ぬいぐるみって、すごくかわいいじゃないですか。見た目もそうだし、思わず触りたくなるような気持ちいい肌触りだったり。我々をある種誘惑してくる部分もあると思うんです。キャラクターに似せる技術も向上していて、いろんな方法で我々を好きにさせようとしています。
人間とぬいぐるみ、相互の矢印がある結果、罪悪感が生まれているという考え方もできるのではないでしょうか。
感情という意味では、もちろん人間側が肩入れしているから罪悪感が生じるわけですが、ぬいぐるみが我々の心に訴えかけるようなものをたくさん持っていることも理由としてあると思っています。
──うう、それを聞くと、余計に愛おしさが増してしまいました。
菊地:だから、「罪悪感を抱くことに罪悪感を抱くことはない」というか。そういうもんだよなと思っていないとやってられないですよね。
人間の別れと一緒で、大事な方が亡くなったとして、お葬式が終わったからって次の日から気持ちを切り替えられるものではありません。いろんな瞬間にその人のことを思い出して、涙が出てしまうということは全然あるわけじゃないですか。その瞬間でパタッと何かが終わり、とはいきませんよね。
生きてますとか死んでますとか、あの日にもう亡くなったので割り切りました、とか全部丸バツで簡単には処理できません。
家族でも、友達でも、恋人でも、死じゃなくても距離ができてしまった場合でも。いろんなことが割り切れないのと一緒で、ぬいぐるみとの関係もまた一筋縄にはいかないんです。それも、やはり大人になってしまったからこその苦味かもしれませんが。